本場中国では春秋戦国時代にはすでに風水の起源となる「卜宅」が存在し、晋の時代には陰陽思想を取り入れた隠宅風水や陽宅風水ができていたのに、風水が日本で広まるまで長き時が必要だった理由は風水が確立する宋の時代以前、中国から文化を持ち帰った遣隋使や遣唐使の存在が大きいといえます。
中国の文化や政治統制の方法を日本に持ち帰った遣隋使や遣唐使の知識の中には伏犠が説いた陰陽思想と五行説を組み合わせた陰陽五行説も入っていました。
陰陽五行説が日本の知識人に大きな影響を与えると日本は次第に陰陽五行説を未来の占いだけでなく政治や人事にも応用、この学問に通じる人物を陰陽師と呼称し、政治の中核に招聘するようになります。
やがて陰陽五行説は陰陽師によって独自の発展を遂げ、中国の占筮、天体観測、暦の作成など多岐に渡る占術を扱える人物となります。
その知識のひとつに地相、つまり風水も含まれていたわけですね。
したがって当時の日本の風水は陰陽五行説が中心であり、風水は理気派に近い形として利用されていたことになります。
この陰陽師でもっとも有名なのが安倍晴明。
以後、日本は張明澄が来日するまで独自の陰陽五行説を中心に街作りや墓作りの歴史を辿っていくことになります。