井原西鶴の脚色によって後世に語られるまでになった悲劇の娘、恋人に会いたい一心で放火し、火あぶりの刑に処せられた八百屋のお七という少女、生年月日は定かでないのに、なぜか1666年生まれ、と決めつけられてしまいました。
この1666年、丙午(ひのえうま)の年となっています。
十干で丙(ひのえ)は文字通り、火の兄で陽干、十二支で午は南の方角を指し、夏の太陽や炎が燃え上がる火の陽支の表現を持っています。
火の陽が重なっているだけに、陰陽五行説では比和(同じ行が重なると良い方向にも悪い方向にも加速する)となり、この年に生まれたから八百屋お七は放火という大罪を犯した、という俗説が生まれてしまいました。
この俗説、笑い事ではなく、その後の日本で丙午に生まれた女性は気性が強く夫の命まで縮めるという迷信にまで広がっていきます。
丙午は60年に1度訪れますが、明治や大正、さらに昭和の時代に入っても丙午の女性に対する偏見は強く、1906年生まれの女性が結婚適齢期に入る1924年頃には結婚が丙午を理由に破談になった女性が自殺するという報道が相次ぎ、依然として迷信が根強く残っていたことを証明しています。
昭和に入っても1966年の出生率は前年に比べて25%も下がるほどで、その前年、あるいは後年は出生率が平均値を上回っています。
この丙午の女性迷信、いつまで続くのかと思っていたら、なんと秋篠宮文仁親王紀子様、旧姓川嶋紀子さん、1966年丙午にお生まれでした。
これで丙午迷信にもピリオドが打たれるでしょう。
21世紀に入った現在、次に訪れる2027年の丙午には、こんな迷信は廃れて欲しいものですね。