干支は十干十二支から成り立っており、その十干は古く堯の時代の神話が元になっています。
では十二支はどうでしょう?
こちらはずっと天文学的で、木星を基準に作られました。
時代は殷から周の春秋、さらに戦国時時代まで進みます。
この頃になると天文学も発達してきて、夜空に輝く一際大きな星、木星が天球を1周するのに12年かかることを発見しました。
そこで木星を歳星と呼び、十二次に分けてそれぞれの位置で年号を表す記述に使われたのです。
これを歳星紀年法といいますが、木星は太陽や月と逆方向に回るため、木星と相対称の星、太歳という仮想の星を作り、その位置を測定することで年号の記述を使うようになりました。
これを歳星紀年法に対して太歳紀年法と言います。
この太歳の位置が十二支として表されるようになりましたが、木星の正確な公転周期は11.862年であることから、どうしても12年周期が崩れてしまうため、後漢時代に入って木星の周期観測による年号ではなく十干十二支の60年周期を機械的に進めていく方法、干支紀年法が取られるようになったのです。
この干支紀年法は今でも続けられているので、約2000年の歴史を持っているわけですね。
これだけなら干支もただの暦の繰り返しだけなので面倒なことにはなりませんでしたが、ちょっと遡って周の戦国時代、中国の思想家がとんでもないことを言い出したことによって、十干十二支はとても複雑な意味を持つことになったのです。