遊び心を仕事に取り入れているのは、芸術家と呼ばれる人たちでもある。絵画や彫刻、詩、それに音楽の創作などには、やはり好奇心とユーモア精神が不可欠だろう。芸術の創作活動時にはまた、パズルを解いたり、ゲームに没頭しているときと同じような精神的高揚感があると思うのだが、どうであろうか。
脳は常に刺激を求めている。それが遊びだとか、仕事だとか、あるいは「俗っぽい」とか「高尚で上品だ」などという区別を脳はしない。
パズルやゲームには、人間の「創造欲」「達成欲」を満たしてくれるものがあるのだ。人類は、大昔から発明を繰り返してきて、その結果、いま見るようなテクノロジー社会がある。
発明の、そもそもの動機は「創造欲」「達成欲」だったに違いない。貨幣経済など存在しない昔から、人間は発明をせずにはいられない、そういう性(サガ)をもっていたのだ。
話しが大きくなってしまったが、要は、人は自らを創造的な環境に置くことで、ますます創造的になれるということが言いたいのだ。だから、私も自らを、創造的な環境に置いているつもりだ。どのように?笑われるかもしれないが、「あやとり」と「折り紙」だ。暇さえあれば、これらを研究している。ただし、この場合の研究というのは「遊び」そのものを意味する。
この「あやとり」と「折り紙」の2つは、日本の伝統的遊びだ。「あやとり」のほうは、本来は女の子の遊びとしてあったようだ。しかし、輪にした糸を左右の手首にかけて、それをいろいろな形にしたり、あるいは相手がいれば互いに取り合うこともでき、創造性を高めるためにも非常に優れた技法となる。
「折り紙」もまた、すごい。最初はたった一枚の紙だったものが、折り込んでいくにつれ、しだいに目的に応じた形を成していき、完成品を見るとき、これが一枚の紙から作られたものなのか、と思わず関心してしまう。それは、まるで細胞分裂を繰り返していくうちに、しだいに生物の形がつくり上げられていく様を連想してしまう。あるいは、生物の進化の変遷まで考えてしまう。どんな生物も最初はたった一個の細胞だったのだ。
またまた、話が膨らんでしまった・・折り紙をするには、どこか落ち着いて折れる場所が必要だが、あやとりのほうは、糸かヒモさえあれば、どこでもできるので便利だ。待ち合わせ時や、手持ち無沙汰のときには、特によい暇つぶしにもなる。ただし、その場合、人に見られて、変な人と思われることもあるから気を付けた方がよい。先日も、歩きながら、あやとりに没頭していたら、女の子から指をさされて笑われてしまった。
創造性を刺激する子供の遊びには、粘土細工や紙工作などいろいろなものがある。道具を使わないものでも、言葉遊び、ナゾナゾ、シリトリなどが、脳に刺激を与える。
一方、創造的な玩具としては、ケンダマとかコマがある。あるいは、オハジキとかお手玉などもある。最近の子供たちは、テレビゲームしかやらないのか、と思っていたら、ある頃を境に、ヨーヨーやケンダマなども流行ってきた。私は、ケンダマとコマはできるが、ヨーヨーができなかったので、小学生の友達たちに教えてもらったりする。彼らは、自分のオリジナルのテクニックなども編み出して、それを披露して得意になることがある。
それに、ある友人の娘はまだ小さいのだが、たまに会うと、私に複雑なあやとりの作り方を教えてくれる。「こんな複雑な過程を覚えているのか、すごいなぁ」と、その才能には驚いてしまう。実際に、子供たちは、とても創造的なのだ。
一方、御老人は囲碁とか、将棋が好きだ。これらも、とても創造的な遊びである。おじいちゃん、おばあちゃんの友達のなかには、草笛をやっている者もいる。この草笛も脳に適度な刺激を与えるという。草を吹くことで、思うような音色が出せたら、楽しいだろう。こんど機会があれば、それも教えてもらおうと思っている。