以前、ある人(日本人)から聞いた話なのですが、インドのある地方の小学校で、そこの先生(インド人)が生徒に母国語の文字を教え始めるさい、その先生は「ア・イ・ウ・エ・オ…」とか「ア・カ・サ・タ・ナ…」と、まるで日本の国語の時間を思わせるような、五十音の発声練習を始めたのを見たというのです。
それで、インドのその地方の「ある言語」と「日本語」との間では、お互いに音の構造がとても似ていて、そのことに大変驚いた、ということでした。五十音図の歴史は意外と古く、その作成は平安時代にまで遡ります。ちなみに、多くの人は、「アカサタナ」よりも、「イロハニホヘト」(いろは歌)のほうが古いと思っているようです。
実は「いろは歌」よりも、少しの差で「五十音図」のほうが先に成立していたのです。その五十音図を作成したのは、名前は不明ですが、仏教僧侶だったことは明らかになっています。その僧侶は五十音図作成にあたり、インドのある文字の配列を参考にしたのでした。それが、デーヴァナーガリー文字とよばれるもので、これは仏教とともに日本に伝えられたものだったのです。
この文字はもともと、仏教経典を記したサンスクリット語(インドの古くからの言葉の一つ)を表記するために作られたとされています。つまり、音声を体系的に分類した文字でもあるのです(これを基にした「悉曇学」(しったんがく)も盛んになりました)。
というわけで、五十音図とインドの言葉とで、その構造が似ている、という先ほどの話に戻ると、「偶然に似ている」のではなくて、「参考にして作ったので似ているのは当然」ということになります。
それはそうと、日本で「梵字」というときは、このデーヴァナーガリー文字を指すことが多いのです。「デーヴァナーガリー文字」はこのように、ずいぶんと文字が長いので、ここから以下は、短く「梵字」と表記することにします。
さて、この梵字を参考にして、五十音が作られたと述べましたが、ではその梵字の音の配列はどのようになっているのか、次にそれを見ていくことにしましょう。
梵字(デーヴァナーガリー文字)の母音の配列も、基本的には日本の「ア・イ・ウ・エ・オ」と同じ配列となっています。また子音の配列にしても、「ア・カ・チャ・タ・ナ・パ・マ」となり、これも日本語の五十音と似ています(もちろん、全く同じではありません。念のため)。
現代の日本語の「サ行」の発音も、その昔は「ツァ・チ・ツ・ツェ・ツォ」か「チャ・チ・チュ・チェ・チョ」のような音であったと考えられています。「サ行」の濁音は現代では、「ザ・ジ・ズ・ゼ・ゾ」とされていますが、これは本当なら「ツァ・チ・ツ・ツェ・ツォ」が濁った音のはず、という意見も出されているのです。
そして「ハ行」もまた室町時代までは「ファ・フィ・フ・フェ・フォ」、もっと古くには「パ・ピ・プ・ペ・ポ」と発音されていたことが知られていますので、昔はより梵字の発音に近かったことが分かります。
昔の人は「母」のことを「ハハ」ではなく、「ファファ」と唇を噛んで発音していたと、高校のときに習ったのを覚えています。それに、今の「ハ行」が「パ行」として「P」の音であったことは、今でも物を数えるときに、「いっぽん、にほん、さんぼん(一本、二本、三本)」というように、「pon」「hon」「bon」の音が混ざって使われることでも確かめることができます。
そして、梵字では「ヤ・ワ・ラ」の音は半母音として扱われているのですが、それも日本の五十音と同じく「ア・カ・チャ・タ・ナ・パ・マ」の後にくるのです。だから、これらを続けて表記すると、五十音図そっくりの「アカチャタナパマヤラワ」となるのです。
梵字ではさらに半母音のあとに、「シャ」「サ」「ハ」という音が続いていますが、日本の五十音図には見られません。このことから、昔の日本人が梵字の配列をもとに五十音図を作っていた時代では、「S」や「H」の音はあまり重要視されていなかったと考えられるのです。
実は、この梵字の「アカチャタナパマヤラワ」の順には一定の法則があります。つまり、口の奥で出す音から、しだいに口の前方で出す音へと移るように、子音を並べたような格好になっているのです。この子音を出す場所を「調音点」というので、この長音点が奥から前へ移動する順序とも言えます(発声器官としても、やはり口の奥から前のほうへと移る)。
というわけで当然、今の日本語の五十音(「あかさたなはまやらわ」)の配列にしても、大まかには子音の調音点(音を出すところ)が口の奥から前のほうに移動する順序で配置されています。「ア行」は子音ではないが、口の奥(喉)から出てくる母音そのものなので、五十音の最初に位置するというわけです。各子音と調音点との関係を以下にまとめてみました。
「あ」はじかに声帯からでる音。
「か」は口の奥で息を破裂させることで出す音。
「さ」は舌と口蓋との間で息を摩擦させて出す音。
「た」は舌が歯について出る音。(舌を歯につけないで「た」と言えるか?)
「な」は「た」と同様、舌を歯につけるが、声を鼻に抜くようにして出す音。
「は」は、調音点が奥に戻るが、昔の日本語の「は」は「ふぁ」であり、唇で出す音。
「ま」は唇を閉じて出す音。これで調音点の移動は完了する。
「や」「ら」「わ」は半母音として別に扱われるが、これらも奥から前の順で並べられている。
このような、音声を分類し、精密に分析する学問である、インドから伝わった「悉たん学」が基になって、われわれ日本人の言葉の音も分類されたというわけです。
「五十音の故郷はインドにあり!」ということです。