「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし、心に望み起こらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。勝事ばかり知って負けることを知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり。人はただ身の程を知れ、草の葉の露も重きは落つるものかな」
関ヶ原の戦いから3年後、江戸に幕府を開いた徳川家康の遺訓です。
岡崎の弱小な一豪族だった松平家に生まれ、幼少時代は今川家、織田家、再び今川家へ人質として囚われ、織田信長が桶狭間の戦いに勝利すると今川家と決別、織田信長の客将として活躍、しかし武田信玄との戦いに敗れるなど、若年時代はけっして目立った武将ではありませんでした。
また織田信長死後、同じく覇を競う羽柴秀吉(豊臣秀吉)と小牧・長久手の戦いで戦術的には優位に進めながらも戦略的には劣り、結果的には豊臣政権の家臣になっています。
豊臣秀吉が病死後、ようやく対抗する武将がいなくなったことから徳川家康の時代が訪れました。
信長ほどの戦術もなく、秀吉ほどの戦略もなかったけれど、草の葉の露だって重すぎれば落ちる、身の程を知れ、という言葉には紆余曲折した人生、苦労人である徳川家康の身上が遺訓によく表れています。