言動の危険信号は、不機嫌によるものと知れ

文豪パルザックの言葉に次のようなものがある。「友人同士、自分が相手より少しすぐれていると思っている限り、その友情はつづく」人間は自分が他よりいくらかでも優っているという確認を無意識の内に、そして常にとりたがっている生物である。

ゆえに、自分が少しでも他より劣っているのではないかとの懸念に襲われると、甚だしく動揺し、かつ苦しむのである。

かつて私は、古い友人にむかって、その頃出会ったある有名人について、その機智とアイデアの奇抜性について、心から驚いたといって賞讃したことがある。すると披は「あの人物の知恵は学術的な知識によって裏づけられたものではなく、ただの卑俗な、いわゆる経験則というものに過ぎない」といった。この時、私は調子にのって「しかし、考えてみれば、すべての知識は経験則であるといえないだろうか?」といってしまった。

彼の表情には明らかな不快感が生じ、声高に、しかも口早に、その有名人の知的価値についてこきおろした。「しまった」と私は内心思った。彼は公立大を出たエリートで、アカデミック尊重タイプの人間なのである。

私は、とうとうと喋る彼の言葉に、まずじっと耳を傾け、彼の興奮が静まるのを待ち「確かに、いわれてみれば、彼(その有名人)の知識内容は、浅薄なところもあるなあ」と同意して、その場を切り抜けた。

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