井上靖著『しろばんば』(新潮社)という小説のなかに、ケサパサと思しき(あるいは似つかわしい)生き物(虫)のことが出てくる。その虫は、小説のタイトルでもある「しろばんば」とよばれており、冒頭にその虫がどんな様子であるのかその概観も出てくる(逆にいうと、虫そのものは、この冒頭1ページにしか出てこない)。以下に、その部分を抜粋しておく。
その頃、と言っても大正四、五年のことで、いまから四十年前のことだが、夕方になると、決まって村の子供たちは口々に“しろばんば、しろばんば”と叫びながら、家の前の街道をあっちに走ったり、こっちに走ったりしながら、夕闇のたちこめ始めた空間を綿屑でも舞っているように浮遊している白い小さい生きものを追いかけて遊んだ。
素手でそれを?み取ろうとして飛び上ったり、ひばの小枝を折ったものを手にして、その葉にしろばんばを引っかけようとして、その小枝を空中に振り廻したりした。しろばんばというのは、“白い老婆”ということなのであろう。子供たちはそれがどこからやって来るか知らなかったが、夕方になると、その白い虫がどこからともなく現れて来ることを、さして不審にも思っていなかった。
夕方が来るからしろばんばが出てくるのか、しろばんばが現れて来るので夕方になるのか、そうしたことははっきりとしていなかった。しろばんばは、真っ白というより、ごく微かだが青味を帯んでいた。明るいうちはただ白く見えたが、夕闇が深くなるにつれて、それは青味を帯んで来るように思えた。
しろばんばが青味を帯んで見えて来る頃になると、帰宅を促すために子供たちの名を呼ぶそれぞれの家の者の声が遠くから聞こえてきた。・・・〔『しろばんば』(新潮文庫) 井上靖著 新潮社 より抜粋〕