前投稿では厄年の初出は平安時代の古辞書「 色葉字類抄(いろはじるいしょう)」ではあるけれど、現代に通じる厄年ではなく、社会的に重要な役目となる歳、役年ではないか、という説を記しました。
しかし江戸時代に入ると、それまでのあらゆる文化が庶民レベルで理解できるように変化しており、厄年に関してもその例外ではありません。
まず江戸時代で厄年が最初に出てくる著述は「和漢三才図会(わかんさんさいずかい)」です。
カンタンに言うと江戸時代の百科事典で、当時の中国、明(ミン)の類書「三才図会」を手本にして作られました。
このタイトルからも分かるように、項目を図解していることが大きな特徴で、全体は105巻81冊にも及ぶ膨大な量で、各巻を天、人、地の部に分けて考証、三才図会を手本にしていることもあって各項目には絵図の他に漢名と和名が表記され、内容は漢文で書かれていました。
この百科事典を編纂したのは当時の大坂の御城入医師、寺島良安で、師事した和気仲安より「医師たるもの者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と言われたことがきっかけとされています。
ちなみに南方随筆で知られる南方熊楠は旧制中学入学前に 和漢三才図会を読破、在学中には筆写まで完了させたため、和漢三才図会は南方熊楠伝説のひとつとしてエピソードを残しています。