オーストラリアに渡ったアメリカズ・カップを奪取すべく名乗りを挙げた日本。
なにしろ当時はオカネもあれば技術もあります。
ないのは経験だけ。
1992年は経験を積む年と決め込み、ニッポン・チャレンジというシンジケートを組織します。
オカネがあるといってもアメリカズ・カップへ参加し、対等に戦うためには最低でも40~50億円、その年の挑戦者となったイタリアは120~130億円の予算を持っていたといわれています。
先を急ぎましょう。
1992年、すでにバブル景気は崩壊していましたが、それでもニッポン・チャレンジはアメリカズ・カップに参戦、予選レースのルイ・ヴィトンカップで準決勝まで進みました。
バブル景気の崩壊はメセナ活動の縮小を意味します。
しかしニッポン・チャレンジは1995年の大会にも出場、同じく準決勝まで進みました。
日本国内がアメリカズ・カップに関心を持っていたのはここまで。
1992年まではバブル景気の余韻が残っていましたが、1995年には国内消費が冷え込み始め、国民の関心はヨットレースどころではなくなっていたのです。
そんな状況の中、予算を大幅に縮小しながらも、国民から関心が寄せられなくなっていながらもニッポン・チャレンジは勝ち目のない戦に、文字通り、挑戦していきました。
ちょっと目頭、熱くなりますね。
そして結果は前2回と同じく準決勝敗退。
以後、日本はアメリカズ・カップに挑戦していません。