「言葉の力と名言集」カテゴリーアーカイブ

戦闘専門の兵士を鍛え上げた織田信長

「人 城を頼らば、城 人を捨てん」

現代風に訳すと、人が城を頼ってばかりいれば、やがてその頼りの城から見捨てられるだろう、というニュアンスになります。

城を物に言い換えると分かりやすくなりますね。

物に固執するほど物によって身が滅ぶ、つまり物ではなく固執が身を滅ぼすという意味になります。

これも織田信長の名言のひとつでしょう。

もっとも、織田信長が比喩として城を上げたのではなく、実際に城への固執がないことからこの名言が生まれたと言われています。 続きを読む 戦闘専門の兵士を鍛え上げた織田信長

湯帷子を着込んだ異端者!織田信長

「いつの時代も変わり者が世の中を変える 異端者を受け入れる器量が武将には必要である」

織田信長が幼少期、「尾張の大うつけ者」と呼ばれていた話は有名ですが、大うつけ者としての行動は父・信秀と緊張関係にあった織田家の主筋「織田大和守家(後に信長暗殺を謀る信友が当主ですね)」が支配する清州城下にわずかの人数で火を放ったり、湯帷子(ゆかたびら・当時の蒸し風呂に入る時に着る入浴着)を普段から着て髷を茶筌(ちゃせん)のように結ったり、あるいは父・信秀の葬儀にも普段着で表れて線香を位牌に投げつけた、程度のことです。

一応、織田家長男なんだから程度ってことはないのですけれど。
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中間管理職としてコキ使われた明智光秀

異端者が持つ才覚を見抜くのが上司の勤め、とはいえ、異端者ばかりでは組織として捗ることはありません。

織田信長はこんなことも言っています。

「組織に貢献してくれるのは『優秀な者』よりも『能力は並の上だが忠実な者』の方だ」

この名言にぴったり当てはまるのが明智光秀でしょう。

足利義昭との両属でしたが信長と義昭が決別すると次第に信長方につき、比叡山焼き討ちの指揮を取ったことに始まり、長篠の戦いや有岡城の戦いなどに次々と参戦。 続きを読む 中間管理職としてコキ使われた明智光秀

「明智が相手じゃ仕方ないか」ではなく…

「是非に及ばず」

織田信長の最後の名言ですね。

京都の本能寺に宿泊していた織田信長、深夜の騒乱に気づいて小姓の森蘭丸に「これは謀反か?如何なる者の企てぞ?」と尋ねたところ、状況を把握した蘭丸が「明智が者と見え申候」と報告、それを受けて発した言葉です。

この言葉、「しかたがない」と捉えられがちで、確かにそういった意味も含まれているので間違いではありませんが、急襲を受けた信長の状況を考えると「しかたがない」という諦観はあまり相応しくありません。

相手に強く要望する時、「ぜひ」が使われます。 続きを読む 「明智が相手じゃ仕方ないか」ではなく…

直江兼続が使った「是非に及ばず」

「おんな城主 直虎」の舞台となった戦国時代、「是非に及ばず」は使い勝手が良いのでさまざまな文献に登場してきます。

信長最後の名言としてだけでなく、並んで有名なのが上杉景勝の家臣だった直江兼続が徳川家康の代理人となっていた西笑承兌(せいしょうじょうたい)に送った書簡、直江状です。

年代は本能寺の変から関ヶ原の戦い直前まで飛びます。

政権をほぼ掌握していた徳川家康は上杉景勝が上洛しないことを責め、家康の外交僧的役割を務めていた西笑承兌に上杉家へ書簡を送らせます。

その内容をカンタンに言うと「上杉家が上洛を断っているのは徳川政権に対する謀反を企てているという噂が流れている、したがって早急に上洛するように」という内容。 続きを読む 直江兼続が使った「是非に及ばず」

徳川相手に皮肉をたっぷり込めた直江状

徳川家康が会津征伐を決めた原因にもなった直江状、その内容の続きです。

家康の外交僧、西笑承兌(せいしょうじょうたい)の書簡を要約すると以下のことが書かれていました。

◯会津で武器を集め、城や橋を作るのはよくないこと

◯近国の堀監物(堀秀治のこと)が再三、謀反の報告をしているので、謝罪がなければ釈明が認められないので注意せよ

◯前田利長も謀反を疑われたが家康公の道理が通った思し召しで疑いが晴れた、これを教訓とせよ 続きを読む 徳川相手に皮肉をたっぷり込めた直江状

詰めを誤って短期間に終わった明智光秀の天下

「わしは1000人の頭になることくらいで終わるつもりはない、もっと大きくなる」

話を元に戻して明智光秀の名言。

これは明智光秀が20歳頃、大黒天の像を拾ったところ、家臣が「大黒天を拾うと1000人の頭になれる」と言ったことに対して発した言葉で、その後、大黒天を捨ててしまったという逸話が残っています。

若い頃は野心家だったようですが信長の家臣となってからはその影を潜め、徹底した忠誠心を示していました。

それほど忠誠心を示した明智光秀がなぜ謀反を起こしたのか謎のまま、謀反に際しての史料が一切ないので動機に関しては憶測に過ぎません。 続きを読む 詰めを誤って短期間に終わった明智光秀の天下

戦場ではつねに最前線で戦っていた豊臣秀吉

「いつも前に出ることがよい、そして戦のときでも先駆けるのだ」

明智光秀が織田信長を討ったとの一報を聞いた羽柴秀吉は、備前高松城の戦いの場から約10日間、約200kmの行軍の後、山崎の戦いで明智光秀の軍を撃破しています。

この軍移動は「中国大返し」と呼ばれ、戦国史上屈指の大強行軍として有名ですね。

あまりに素早い行動から信長暗殺計画は羽柴秀吉が立案したのではないか、と言われたほどです。

冒頭の名言はのちに豊臣秀吉となった羽柴秀吉が発した言葉です。 続きを読む 戦場ではつねに最前線で戦っていた豊臣秀吉

史上最大の水攻め作戦

「戦わずして勝ちを得るのは良将の成すところである」

豊臣秀吉は戦場においてスピード感のある戦い方ができると同時に、兵を使わず金を使ってじっくりと相手を落とす戦術にも長けていました。

たとえば明智光秀が織田信長急襲した時に遠征していた備中高松城の戦い。

高松城は周囲が湿地帯という条件の珍しい城のため、騎馬や歩兵が攻めづらいという利点を持っていました。

そこで秀吉、近くの足立川に堤防を作って流れを堰き止め、氾濫させて高松城周囲を水浸しにするという突拍子もない作戦に出ます。 続きを読む 史上最大の水攻め作戦

20万以上の兵を集めて北条氏を征伐

「財産を貯め込むのは良い人材を牢に押し込むようなものだ、世が安らかになるのであれば、わしはいくらでも金を使う」

これも豊臣秀吉の名言ですね。

これを実際に行ったのが小田原征伐でしょう。

関東平定を行っていた北条家を倒せば、ほぼ全国統一を果たすことになった豊臣秀吉は傘下の諸大名を総動員、その数約20万という兵力を上げて北条家征伐に向かいます。

北条側も豊臣方が攻めてくることを予想、本丸の小田原城に関東武将の精鋭を集め、山中城や松井田城、韮山城など支城を固めますが、圧倒的な兵力に抵抗する術がなく、大軍進行からわずか2ヶ月余りで小田原城を陸と海から包囲、そのまま持久戦に持ち込み、約1ヶ月後に開城しました。 続きを読む 20万以上の兵を集めて北条氏を征伐

秀吉の信長に対する見解とは?

「信長公は勇将であるが良将ではない。剛を持って柔に勝つことを知ってはおられたが、柔が剛を制することをご存じなかった。ひとたび敵対した者に対しては、 怒りがいつまでも解けず、ことごとく根を断ち葉を枯らそうとされた。だから降伏する者をも誅殺した。これは人物器量が狭いためである。人には敬遠され、衆 から愛されることはない」

これも豊臣秀吉の名言のひとつです。

確かに信長は理想主義でプランを実現するための策には長じていましたが、配下との関係はビジネスライクであったことから高い信頼関係は築けず、また敵対する者の一家残党まで誅殺するのは将来的に謀反を起こさせないための措置でした。 続きを読む 秀吉の信長に対する見解とは?

井伊直政を高く評価していた徳川家康

戦国武将が「おんな城主 直虎」から離れつつあるので元に戻しましょう。

直虎が育てた井伊家の嫡男、虎松(のちの井伊直政)を小姓にした徳川家康の名言です。

「いさめてくれる部下は、一番槍をする勇士より値打ちがある」

家康は家臣を高く評価することはあまりありませんでしたが直政は別格で、家康の三男で後継者となった秀忠の妻、お江に宛てた手紙の中で、「井伊直政という男は日頃こそ冷静沈着で口数が少なく何事も人に言わせて黙って聞いているが、局面では的確に意見を述べる。とくに自分が考え違いをしている時は余人がいないところで物柔らかに意見してくれる」と述べています。 続きを読む 井伊直政を高く評価していた徳川家康