意味としては『誰もが』というような言葉です。
『一休咄』の中に一休禅師(⇒ 一休禅師の言葉)の歌として、この言葉が出てきます。
『生まれては死ぬるなりけり、おしなべて釈迦も達磨も猫も杓子も』
釈迦も達磨も猫も杓子も、みんな生まれて死んでいくのだ、という歌です。
杓子というのはしゃもじのことですが、なぜ猫と杓子が並列で書かれているのでしょうか?
これには説が幾つかあります。
神主を表す禰子(ぬこ)と、僧侶を表す釈氏・釈子(しゃくし)で、禰子も釈氏もが変化したという説が一番有力なのだそうです。
一休禅師が使っていた、というところからでしょう。
他にも『女子(めこ)も弱子(じゃくし)も』(女も子供も)が変化したという説、『寝子(ねこ)も赤子(せきし)も』(寝る子も赤ん坊も)が変化したという説、杓子はしゃもじを示すことから主婦を表し、猫も主婦もという説、猫はどこにでもいて、しゃもじはどこにでもあるものから、ありふれているものを示している、という説などがあります。
どれが正しいのかはわかっていません。
そもそも、猫は関係ない、というのが有力なのだそうです。
ただ、『気まぐれな猫ですら』という風に使うと、結構しっくりきますけれどね。