話は江戸時代に戻って招き猫の話。
嘉永5年、浅草の花川戸に住んでいた老婆が貧しさのあまり、愛猫を手放してしまいましたが、その猫が夢枕に現れると「自分と同じ姿をした焼き物の人形を作れば福徳を授かります」と告げます。
老婆、その猫の言葉を信じ、浅草周辺で日用品の陶磁器を作っている今戸焼に依頼して浅草神社の鳥居横で販売したところ、大人気を呼びました。
これが招き猫のひとつの期限といわれる今戸焼丸〆猫説。
もうひとつの発祥説は世田谷区にある豪徳寺です。
彦根藩第二代藩主の井伊直孝が鷹狩の帰りに豪徳寺の前を通りかかった時に大雨に遭い、大きな木の下で雨宿りをしていました。
すると豪徳寺にいた猫が井伊直孝に向かって手招きをしたので、直孝が猫の方に向かうと雨宿りしていた木に雷が落ち、直孝は一命を取り留めます。
直孝はその猫に感謝し、豪徳寺に多大な寄付を行い、和尚は猫が死んだ時、丁重に弔って招猫堂を建てました。
このお堂に収められたのが招福猫児(まねぎねこ)です。
ちなみに彦根城築城400年を記念して作られたマスコット「ひこにゃん」は、このエピソードが元になっています。
この他にも太田道灌が関わっている自性院説や伏見稲荷説もありますが、現在の招き猫の形を見ると、丸〆猫説と豪徳寺説が有力となっています。